No.32, No.31, No.30, No.24, No.20[5件]
実を言うと見せない用の絵や小説は少しずつ作っている。完全に私のためでしかないし、基本的にR18相当の暴力性を含むのでお見せ出来ない。
でふと思ったのが、Toxic masculinityの実験場みたいだな、ということ。
古い二次創作のリライトもしていると、私も「お作法」に染まっていて、中々偏屈な考えを持っていた事がよくわかる。
私自身まだ今より無知で、もやもやした違和感の正体にも気付けず、回復もしていない頃だったから無理もないと言えばそうなのだが。
さておき、とても表にお出し出来ないような有害性を描いているので、描いている最中から「さすがにこれは問題がある」と自ら問題行動を検証していける。勿論、「自分のため用」であっても問題行動をよしとする作品にはしていない。そのため「なぜこのような問題行動に出るのか、なぜ問題が起きるのか」を掘り下げるため、有害な側に立って考える役にも立つ。
「なぜなのか」を言語化しなければ恐らく悪人を描くにしても地に足の着いた造形に変化させきれない。私にとって創作活動は思考という娯楽の一部なのだろう。
思えばアダムもキャラクターとして作った当初は結構歪んだ性格だった。ベリンダの元ネタとなったキャラクターと、歪ではない関係になるよう軌道修正を試みて初めて、まともな、というか、非現実的ではない範疇の男になった。そして「ヘルマオン」作中の悪役ポジションの人物達に有害性が移譲されて活きた。これも「自分のため用」創作という実験室のお陰だと思う。
アダムの最初のラフを描いたのは5年前の8月14日だった。
元・獅子座。現・天秤座(10月16日生)の男。
下は初めて描いた時のアダム。話を先に考えていて、こういう感じかなとささっと描いた。特徴的なところはほぼ今に残っていると思えるが、この表情をご覧頂きたい。本編と違う性格だとご想像頂けるのではなかろうか。
でふと思ったのが、Toxic masculinityの実験場みたいだな、ということ。
古い二次創作のリライトもしていると、私も「お作法」に染まっていて、中々偏屈な考えを持っていた事がよくわかる。
私自身まだ今より無知で、もやもやした違和感の正体にも気付けず、回復もしていない頃だったから無理もないと言えばそうなのだが。
さておき、とても表にお出し出来ないような有害性を描いているので、描いている最中から「さすがにこれは問題がある」と自ら問題行動を検証していける。勿論、「自分のため用」であっても問題行動をよしとする作品にはしていない。そのため「なぜこのような問題行動に出るのか、なぜ問題が起きるのか」を掘り下げるため、有害な側に立って考える役にも立つ。
「なぜなのか」を言語化しなければ恐らく悪人を描くにしても地に足の着いた造形に変化させきれない。私にとって創作活動は思考という娯楽の一部なのだろう。
思えばアダムもキャラクターとして作った当初は結構歪んだ性格だった。ベリンダの元ネタとなったキャラクターと、歪ではない関係になるよう軌道修正を試みて初めて、まともな、というか、非現実的ではない範疇の男になった。そして「ヘルマオン」作中の悪役ポジションの人物達に有害性が移譲されて活きた。これも「自分のため用」創作という実験室のお陰だと思う。
アダムの最初のラフを描いたのは5年前の8月14日だった。
元・獅子座。現・天秤座(10月16日生)の男。
下は初めて描いた時のアダム。話を先に考えていて、こういう感じかなとささっと描いた。特徴的なところはほぼ今に残っていると思えるが、この表情をご覧頂きたい。本編と違う性格だとご想像頂けるのではなかろうか。
「教養」とはなにか。と聞かれたら「すぐには役立たない、学問の本質」だと答える。
Xを見ていたら「教養とは、社会の上層部と接続するためのもの」という風な解釈がされていた。それも教養の「効果」かもしれないが、教養の本質ではない。そして「知識」かもしれないが、それとも少し違う。
教養はまず知識を仕入れる事、そして自分の頭で咀嚼し、自分のものにする事。
知識を自分の思考として獲得できなければ、それは単に「知っているだけ」の状態である。子どもは知識を沢山吸収する。けれどその知識から発展する教えを実践し辛いのは、まだ精神性の基盤となる思考が未成熟だからだ。だから子どもは、世の中の道理を一通り知っていても、実行できない。成長していく過程で現実の問題として触れ合ったり、人と議論したり、自分の中で知識を検証したりしていく中で、漸く己の学としての教養になっていく。
教養は一度身についたら終わりなのではなく、終生学び続けて磨く事が出来る道具でもある。そして磨かれた道具としての教養は様々な局面で役に立つ時が来る。それは自らの行いを正すことであったり、人の本質を見抜くことであったりする。仮に富や成果に繋がらなかろうとも、必ず己の人生を豊かにする。
恩師の座右の銘、「無用の用」の言わんとするところもそうではなかろうか。
「社会の上層部」つまり上流階級とやらと接続するため、そして成功するためだと考えていると、足元をすくわれる。真に教養を身に着けていると、すり寄られているかどうかくらい見分けもつくからだ。「接続のため」という魂胆が見え透いてしまうと、相手から信用されない。信用されなければ深い付き合いにもなれない。
そのため、この考えのままであると、真に教養を身に着けている人間からは信用されないし、上辺の「教養」(=学歴や、ただの知識などのブランド)を持っているだけの、同レベルの人間とだけ付き合う事になる。そしてそういう人間も上層部には一定数居る、というだけだ。
「真理が我らを自由にする」という言葉もある。教養とは学問の本質であり、学問とは私達を自由にするものでもある。
Xを見ていたら「教養とは、社会の上層部と接続するためのもの」という風な解釈がされていた。それも教養の「効果」かもしれないが、教養の本質ではない。そして「知識」かもしれないが、それとも少し違う。
教養はまず知識を仕入れる事、そして自分の頭で咀嚼し、自分のものにする事。
知識を自分の思考として獲得できなければ、それは単に「知っているだけ」の状態である。子どもは知識を沢山吸収する。けれどその知識から発展する教えを実践し辛いのは、まだ精神性の基盤となる思考が未成熟だからだ。だから子どもは、世の中の道理を一通り知っていても、実行できない。成長していく過程で現実の問題として触れ合ったり、人と議論したり、自分の中で知識を検証したりしていく中で、漸く己の学としての教養になっていく。
教養は一度身についたら終わりなのではなく、終生学び続けて磨く事が出来る道具でもある。そして磨かれた道具としての教養は様々な局面で役に立つ時が来る。それは自らの行いを正すことであったり、人の本質を見抜くことであったりする。仮に富や成果に繋がらなかろうとも、必ず己の人生を豊かにする。
恩師の座右の銘、「無用の用」の言わんとするところもそうではなかろうか。
「社会の上層部」つまり上流階級とやらと接続するため、そして成功するためだと考えていると、足元をすくわれる。真に教養を身に着けていると、すり寄られているかどうかくらい見分けもつくからだ。「接続のため」という魂胆が見え透いてしまうと、相手から信用されない。信用されなければ深い付き合いにもなれない。
そのため、この考えのままであると、真に教養を身に着けている人間からは信用されないし、上辺の「教養」(=学歴や、ただの知識などのブランド)を持っているだけの、同レベルの人間とだけ付き合う事になる。そしてそういう人間も上層部には一定数居る、というだけだ。
「真理が我らを自由にする」という言葉もある。教養とは学問の本質であり、学問とは私達を自由にするものでもある。
美術系の専門教育を受けていないのもあって、私自身はトレースというもの自体忌避している。
というのも、小学生の頃私も見栄を張って絵を上手く見せようとして漫画の絵をトレースした事があったからだ。すると早速皆に突っ込まれて恥ずかしい思いをした上、やっていてちっとも楽しくなかったので、そこで止めた。
何より、私が小さい頃から気にしている自分の絵の嫌いな部分は「動きを感じられない硬さ」である。トレースしてしまうと、硬さしか残らない。
一方、3Dのポージング人形をなぞるという手法がある。これに関して言えば権利問題はクリアされているので、フリー素材なり自前のモデルなりをなぞるのは問題ない。ただし、実際やっている人が現場にいた時、「こりゃだめだ」と思った。
基礎が無いと、人体のウェイトというものがわかっていない絵になりがちのだ。
きちんと基礎があり、殆どモデルを無視して、たたき台的に描く人はそうでもない。しかし、モデルに頼り切って描く人は、3DCG独特の違和感を二次元に修正して落とし込む事ができず、実在感がまるでない絵になってしまう。簡単に言えば、立体感と生命感が無くなる。
そして今回江口寿史氏の絵を見ていて思ったのが、手をあまり描けていない事だった。
こんな事を言うのは気が引けるが、手抜き的にトレースする人と、生成AIは、手をあまり上手に描けないという変な共通点があると感じた。
模写をする際、出来れば実物を見ながらがいいと言ったのはこれだ。
デフォルメ率がどうなろうと、基礎さえあれば現実味のある、重みを感じられる絵を描く事が出来る。しかし、模写の段階でこの基礎の立体感把握が出来ていないと、何の応用も効かなくなる。
それにしても、無断で他人を素材扱いするというのは一番駄目だと思った。
氏を擁護している人は「画力はある」「個性はある」と言う。
一定の画力は確かにあるだろう。けれど手など細部を描けていない点についてどう弁明するのだろう。
個性はあるに決まっている。どう足掻いても人はそこから逃れたくても逃れられない宿命にある。そしてそれは技巧の高さとイコールではない。生まれたばかりの時から既に与えられたもの、それが個性だ。消えるわけがない。
商業イラストレーターとしてあってはならない事だ。法的な責任もかかってくる。
何より、信じてくれたクライアントやファンに対する重大な裏切り行為だ。
この点を踏まえるだけでも、氏の擁護は無理ではないか。そういう意味で、私は感情的に氏を擁護している人とは仲良くなれそうにない。当然ながら、氏の絵も、絵に対する姿勢も嫌いだ。
ファンは残念な事だろう。中には勿論、「あの人の絵が好きだった自分を否定されている」ように感じて、自分がみじめに思えて擁護に走るという事もあるだろう。けれどそれでは自分の心も救われないし、氏のためにもならない。同様に後ろめたいことをしている同業者なのだとしたら、もうそれは知った事じゃない。
Blueskyでも語ったとおり、「電車内スケッチ」「街で見かけたこんな人」として、勝手に見ず知らずの他人をスケッチして、しかもネットに投稿する事自体が嫌いだ。なぜなら、描かれた人を何一つ尊重していないからだ。盗撮にも近いとも思う。
だから私は知っている人しか模写していないし、投稿する際は出典を明記する。デッサン練習をしていた時も、大半は自画像を描いていたのもそれでだ。自分の姿なら、自分が許可すればいいからだ。投稿しているものに静物画が多いのもそういう理由である。
時代が進んだから云々ではない。「描かせて貰う前に承諾を得る」。人として最低限の倫理観の話ではないのだろうか。
というのも、小学生の頃私も見栄を張って絵を上手く見せようとして漫画の絵をトレースした事があったからだ。すると早速皆に突っ込まれて恥ずかしい思いをした上、やっていてちっとも楽しくなかったので、そこで止めた。
何より、私が小さい頃から気にしている自分の絵の嫌いな部分は「動きを感じられない硬さ」である。トレースしてしまうと、硬さしか残らない。
一方、3Dのポージング人形をなぞるという手法がある。これに関して言えば権利問題はクリアされているので、フリー素材なり自前のモデルなりをなぞるのは問題ない。ただし、実際やっている人が現場にいた時、「こりゃだめだ」と思った。
基礎が無いと、人体のウェイトというものがわかっていない絵になりがちのだ。
きちんと基礎があり、殆どモデルを無視して、たたき台的に描く人はそうでもない。しかし、モデルに頼り切って描く人は、3DCG独特の違和感を二次元に修正して落とし込む事ができず、実在感がまるでない絵になってしまう。簡単に言えば、立体感と生命感が無くなる。
そして今回江口寿史氏の絵を見ていて思ったのが、手をあまり描けていない事だった。
こんな事を言うのは気が引けるが、手抜き的にトレースする人と、生成AIは、手をあまり上手に描けないという変な共通点があると感じた。
模写をする際、出来れば実物を見ながらがいいと言ったのはこれだ。
デフォルメ率がどうなろうと、基礎さえあれば現実味のある、重みを感じられる絵を描く事が出来る。しかし、模写の段階でこの基礎の立体感把握が出来ていないと、何の応用も効かなくなる。
それにしても、無断で他人を素材扱いするというのは一番駄目だと思った。
氏を擁護している人は「画力はある」「個性はある」と言う。
一定の画力は確かにあるだろう。けれど手など細部を描けていない点についてどう弁明するのだろう。
個性はあるに決まっている。どう足掻いても人はそこから逃れたくても逃れられない宿命にある。そしてそれは技巧の高さとイコールではない。生まれたばかりの時から既に与えられたもの、それが個性だ。消えるわけがない。
商業イラストレーターとしてあってはならない事だ。法的な責任もかかってくる。
何より、信じてくれたクライアントやファンに対する重大な裏切り行為だ。
この点を踏まえるだけでも、氏の擁護は無理ではないか。そういう意味で、私は感情的に氏を擁護している人とは仲良くなれそうにない。当然ながら、氏の絵も、絵に対する姿勢も嫌いだ。
ファンは残念な事だろう。中には勿論、「あの人の絵が好きだった自分を否定されている」ように感じて、自分がみじめに思えて擁護に走るという事もあるだろう。けれどそれでは自分の心も救われないし、氏のためにもならない。同様に後ろめたいことをしている同業者なのだとしたら、もうそれは知った事じゃない。
Blueskyでも語ったとおり、「電車内スケッチ」「街で見かけたこんな人」として、勝手に見ず知らずの他人をスケッチして、しかもネットに投稿する事自体が嫌いだ。なぜなら、描かれた人を何一つ尊重していないからだ。盗撮にも近いとも思う。
だから私は知っている人しか模写していないし、投稿する際は出典を明記する。デッサン練習をしていた時も、大半は自画像を描いていたのもそれでだ。自分の姿なら、自分が許可すればいいからだ。投稿しているものに静物画が多いのもそういう理由である。
時代が進んだから云々ではない。「描かせて貰う前に承諾を得る」。人として最低限の倫理観の話ではないのだろうか。

心情的に開発段階だけならまだ「虚偽報告」という点だけを注視して他は目を瞑ってやりたくもなるところだが、発売後暫く生成AIの出力物がそのまま出されていたというのだからもう黒としか言いようがない。
人のものを盗み、そのまま販売した。データセットに使われた見ず知らずの人に対する人権侵害行為であり、プレイヤーに対する裏切り行為である。
ちなみにそのアセットは現在差し替えられているとのこと。
「予算もないインディーズはどうやってゲームを作ればいいんだ」的な声が散見されたが、答えは簡単だ。「資金を援助して貰うか、予算に見合ったゲームを作れ」。
お店はお金が無ければ物を売ってくれない。各セクションのクリエイターも、対価が無ければ物を作れない。その際、取るべき手段の中に「盗む」が、最初から当たり前のように入っているのが問題なのだ。
実家が小売業を営んでおり、父方の祖母の実家も小売業だった。そのため小さい頃からよく言われていた。「たった一円でもお金が足りなかったら、お店は物を売ってくれない。たった一円、されど一円」だと。
実家自体は割とゆるく、常連さんにはおまけをするし、それこそわずかに手持ちが足りないお客さんにも値引きして物を売っていた。だけどそれは実家がそういう方針だからに過ぎず、端から他者に譲歩を求めるのはおかしい。
アート制作もゲーム開発も「物を売る商売」である事に変わりない。他店や仕入れ先から盗んでくるのは当然言語道断だとして、虚偽表示も許されない。
私が子どもだった頃「キレる十代」などと言う言説が飛び交い、「どうして人を殺してはいけないのか」と問う子ども達が増えたと言われていた。この問いについても答えは簡単で「無条件で他人の権利を侵害し、コントロールしていい権利は誰にも無いから」だ。
同様に、他者であるお客さんをコントロールしていい権利もまた、誰にも無い。だからこそ、商売において必要なのは交渉技術だとか社交性以前に、誠実さであると私は思う。
お客さん達は「いい物」を求める以上に「安心安全である物」を求める。とりわけ、商品に興味が無いお客さんは尚更そうである。危険性が無いか、害は無いか、吟味して漸く手に取った商品をレジへ持って行ってくれる。
長期的な視点から考えると、安全で質の高い物を作り、安心感を持って貰う事が信頼に繋がり、売る側も買う側も幸せになれる。狭いパイだけを見て短期的な視点から物を売ろうとすると、大抵いつかしっぺ返しを食らう事になる。目先の利益だけ見た結果。生成AIをゲーム開発に利用する事というのは、そういう短期的な視点からの発想である。そしてその結果の一例が今回の件だと言えるのではなかろうか。
人を騙してもいい事なんて何もないよ。