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Icebreaker
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日々のちょっとした絵の格納庫です。余計な話もたまにします。

No.24

「教養」とはなにか。と聞かれたら「すぐには役立たない、学問の本質」だと答える。

Xを見ていたら「教養とは、社会の上層部と接続するためのもの」という風な解釈がされていた。それも教養の「効果」かもしれないが、教養の本質ではない。そして「知識」かもしれないが、それとも少し違う。

教養はまず知識を仕入れる事、そして自分の頭で咀嚼し、自分のものにする事。
知識を自分の思考として獲得できなければ、それは単に「知っているだけ」の状態である。子どもは知識を沢山吸収する。けれどその知識から発展する教えを実践し辛いのは、まだ精神性の基盤となる思考が未成熟だからだ。だから子どもは、世の中の道理を一通り知っていても、実行できない。成長していく過程で現実の問題として触れ合ったり、人と議論したり、自分の中で知識を検証したりしていく中で、漸く己の学としての教養になっていく。

教養は一度身についたら終わりなのではなく、終生学び続けて磨く事が出来る道具でもある。そして磨かれた道具としての教養は様々な局面で役に立つ時が来る。それは自らの行いを正すことであったり、人の本質を見抜くことであったりする。仮に富や成果に繋がらなかろうとも、必ず己の人生を豊かにする。
恩師の座右の銘、「無用の用」の言わんとするところもそうではなかろうか。

「社会の上層部」つまり上流階級とやらと接続するため、そして成功するためだと考えていると、足元をすくわれる。真に教養を身に着けていると、すり寄られているかどうかくらい見分けもつくからだ。「接続のため」という魂胆が見え透いてしまうと、相手から信用されない。信用されなければ深い付き合いにもなれない。
そのため、この考えのままであると、真に教養を身に着けている人間からは信用されないし、上辺の「教養」(=学歴や、ただの知識などのブランド)を持っているだけの、同レベルの人間とだけ付き合う事になる。そしてそういう人間も上層部には一定数居る、というだけだ。

「真理が我らを自由にする」という言葉もある。教養とは学問の本質であり、学問とは私達を自由にするものでもある。

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