home palette
chat
Icebreaker
Icebreaker

Icebreaker

日々のちょっとした絵の格納庫です。余計な話もたまにします。

No.19, No.18, No.16, No.15, No.14, No.13, No.127件]

母の書棚にはアガサ・クリスティとコナン・ドイル、そして松本清張と遠藤周作の著書がある。活字中毒と言ってよかった私も当然それらを読んだ。が、松本清張だけは手付かずだった。

昨日、NHK ONEで「未解決事件 File.09 松本清張と帝銀事件」を見た。ドラマは当然脚色されているとはいえ、松本清張の姿勢には好感を持ち、ふと母が著作を好きなのを思い出した。曰く「考えさせられる内容だからすっきり解決するわけじゃない分もやもや感が残るけど、それが他のミステリーと一線を画していて面白い」との事。
この感想からすると、アガサ・クリスティの著作もそれに似ていると私は思う。クリスティの場合は、殆ど割とすっきり見せてくれるので、もやもやした気持ちにはならないが。

というところで、逆に、好みで無かった書籍を思い出した。横溝正史の「獄門島」だ。
横溝正史は金田一耕助ものが時々テレビドラマで放映され、時々見ていた。しかしいまいち好きになれないままだった。
ネットの知人さんが横溝正史が好きというので、ふと「原作なら面白いと思うかもしれない」と「獄門島」を手に取った、これがだめだった。

文学ではよくある話で珍しくもなんともないが、女性という存在が単なる舞台装置になっているのだ。お人形さんのように意思を持たず、強いて言えばグロテスクに都合よく誇張されたものだけを持っている。容姿然り、感情然り。
前述の通り文学やらフィクションには多かれ少なかれこういったものが存在するが、それでも作家によって色は違う。横溝正史は「獄門島」一つとってもかなり私にとって無理だったし、きっとそういう思想の持ち主だろうので、他の著作も合わないだろう。
そして困った事に、影響を受けた作家は現代にも少なからず存在し、彼らによってまた、こういう「お作法」が受け継がれている。小説でも、漫画でも、映画でも。

私が小説執筆を再開し、投稿サイトでの投稿を始めたのも、こうした女性像に対する抵抗感からだった。小説だけの話でもない。絵でも漫画でも何でも、私のあらゆる表現において「舞台装置ではない等身大の女性」を描きたいと思っている。幸い、仕事でもゲーム業界というのはそういう事を実現し易い。
もっと言えば、小さい頃読んでいたフィクションにおいて「私(子ども)はこんなに聞き分けがよくない」という反発もあって、だからストーリー漫画を描き始めたという過去の経緯もある。漫画を描いていたのは親友に影響されてのコミュニケーション手段としてだが、ストーリー漫画を始めたのは自主的で、こういう経緯からだ。世の出来事とフィクションへ常に不満と疑問を持っていた。自分の心を癒すためだった。
そのため小さい頃から「大人も昔子どもだったのに、どうして現実味のない子どもキャラクターを作るんだろう。昔の事を忘れているのかな。私もいつか大人になったら、子どもだった頃の事を忘れるのかもしれない。忘れないようにずっと覚えておこう」と強く思った思い出もある。

フィクションはフィクションなので「こんな人おらんやろ」ではある。けれども「こんな男性いない」より圧倒的に「こんな女性いない」「こんな子どもいない」の方が多い不均衡さがある。この謎を解き明かすべくアマゾンの奥地に行くわけにもいかないので、日々色々考えながら、作品に反映させていければと思う。畳む

呟き

「嫌な情報を無視して、SNSでは自分の本分たる作品しか出さないのがスマートな作家」と、いう言説はクリエイター内でよく言われる。見てくれる人達側の「作家は余計な自我を出すな」と、少し似ている。そしてこれらは、一面的には正しい。

ただ、一つ「嫌な情報を無視」する問題点がある。それは世間に疎くなる事。世間に疎くなると、自分の中の思想も膨らまない。思想が膨らまないと、作品は豊かにならない。
作品とは思想を凝縮したものなので、思想も思考も無ければ中身のないものしか出ない。

「では嫌な情報は取りながら、表で物申す事をしなければよい」という話にもなる。どっこい、Sora2の騒動とOpenAI側の対応からしても、SNSで騒ぐ事は案外効果的だと証明されている節がある。内々に動いていればいいという話でもない。
任天堂は既にロビイングしているようだが、それが出来るのは巨大資本がある組織でしかない。個人のクリエイターは、SNSで騒いで、騒ぎを大きくした方が、戦い方としては正しい。
何しろネットやSNSというものは、後ろ盾のない個人に与えられた数少ない「力」だからだ。
※10/06追記:任天堂から公式に声明が出た。ロビイングしている云々はデマだそうだ。


この視点からすると「無視して」「自我を出すな」などの言説は「余計な事を喋って騒がれると都合が悪い側」に利用される事もあるため、正しくなくなる。
強いて言えば「言い方には気を付けて」くらいだろう。それでも結局自分の言いたい事を素直に言えているのなら、そこまで気にする必要もない。

呟き

「悪魔城ドラキュラ 月下の覚醒」観てきた事はBlueskyで呟いたとおり、数日頭いっぱいになる事はなかろうと言ったものの、この時間でも頭の中で反芻して一人で口角上げています。iTunesでサントラも販売されていたので買いました聴いてます。通販でグッズもしっかりぽちりましたが、やっぱり円盤買わないと駄目だな……。

初報時点で永久輝せあさんのアルカードがアルカードである事は言われていたとおりなんだけど、輝月ゆうまさんの伯爵も伯爵なんですよ。全国イケオジ大好き協会会員としても納得のイケオジですありがとうございます。

今日までの疲れを癒し、明日に希望を持って生きる活力になるのが創作作品だと思っていて、そうでありたいと思いつつ仕事でも趣味でも描いたり書いたりしている身として、まさしくそれを体現した舞台だったなと思いました。
中学生の頃修学旅行で宝塚観劇が予定に組まれていて、演目は「風と共に去りぬ」でした。観る前は私も含めて皆「宝塚か~」って侮ってるんだけど、観た後全員と言っていいほど目キラキラして劇場から出てくる。それがヅカ。特に女子は数日間その事ばっかり話していた懐かしい記憶も蘇りました。

「愛, Love Revue!」で男役の皆様を見つつ「女性なんだよな…?」と終始頭の中がバグっていました。このかっこよさを何と言えばいいのやら。ただの固定観念や一方的な理想化とも違うんだよな…。わからない。

東京での知人さん達は私と同様、宝塚ファンというよりゲームファンな方が多く(それはそう)、その皆様が観劇後口をそろえて「良かった」と仰っていたとおり大満足でした。が、その分ロスが大きい。やっぱり円盤買わないと駄目だな……(二回目)。

東京ゲームショウに行った後と同じく、さ~仕事頑張らなきゃね!って思いました。

呟き

ホームページ始めた当初あたりまでは、基本的に若い女の子が主人公の漫画や物語ばかり描いていたんです信じてください。というのも私自身が若かったから&創作スタイルは基本的にその時々の自分の年齢に合わせた、ある種リアルの延長線上にある話だったからです。
という感じで。中高年キャラクターは中高年キャラクターとして別に描いていて、彼らはあくまで創作物語の中ではずっと重要なサポート役だったり、サブストーリーでの主人公でした。中高年キャラクターを主人公にした物語というのは、実は「ヘルマオン(HERMAON)」が初めて。私が中年になったので満を持して。中年の気持ちがわかるようになりました。

「終焉のパンドラ」は自然とアルファとニコラ二人が全面に出てくる形になっていて、理人頑張れ理人、という気持ちが作者なりにあります。

創作語り