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Icebreaker
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日々のちょっとした絵の格納庫です。余計な話もたまにします。

No.19

母の書棚にはアガサ・クリスティとコナン・ドイル、そして松本清張と遠藤周作の著書がある。活字中毒と言ってよかった私も当然それらを読んだ。が、松本清張だけは手付かずだった。

昨日、NHK ONEで「未解決事件 File.09 松本清張と帝銀事件」を見た。ドラマは当然脚色されているとはいえ、松本清張の姿勢には好感を持ち、ふと母が著作を好きなのを思い出した。曰く「考えさせられる内容だからすっきり解決するわけじゃない分もやもや感が残るけど、それが他のミステリーと一線を画していて面白い」との事。
この感想からすると、アガサ・クリスティの著作もそれに似ていると私は思う。クリスティの場合は、殆ど割とすっきり見せてくれるので、もやもやした気持ちにはならないが。

というところで、逆に、好みで無かった書籍を思い出した。横溝正史の「獄門島」だ。
横溝正史は金田一耕助ものが時々テレビドラマで放映され、時々見ていた。しかしいまいち好きになれないままだった。
ネットの知人さんが横溝正史が好きというので、ふと「原作なら面白いと思うかもしれない」と「獄門島」を手に取った、これがだめだった。

文学ではよくある話で珍しくもなんともないが、女性という存在が単なる舞台装置になっているのだ。お人形さんのように意思を持たず、強いて言えばグロテスクに都合よく誇張されたものだけを持っている。容姿然り、感情然り。
前述の通り文学やらフィクションには多かれ少なかれこういったものが存在するが、それでも作家によって色は違う。横溝正史は「獄門島」一つとってもかなり私にとって無理だったし、きっとそういう思想の持ち主だろうので、他の著作も合わないだろう。
そして困った事に、影響を受けた作家は現代にも少なからず存在し、彼らによってまた、こういう「お作法」が受け継がれている。小説でも、漫画でも、映画でも。

私が小説執筆を再開し、投稿サイトでの投稿を始めたのも、こうした女性像に対する抵抗感からだった。小説だけの話でもない。絵でも漫画でも何でも、私のあらゆる表現において「舞台装置ではない等身大の女性」を描きたいと思っている。幸い、仕事でもゲーム業界というのはそういう事を実現し易い。
もっと言えば、小さい頃読んでいたフィクションにおいて「私(子ども)はこんなに聞き分けがよくない」という反発もあって、だからストーリー漫画を描き始めたという過去の経緯もある。漫画を描いていたのは親友に影響されてのコミュニケーション手段としてだが、ストーリー漫画を始めたのは自主的で、こういう経緯からだ。世の出来事とフィクションへ常に不満と疑問を持っていた。自分の心を癒すためだった。
そのため小さい頃から「大人も昔子どもだったのに、どうして現実味のない子どもキャラクターを作るんだろう。昔の事を忘れているのかな。私もいつか大人になったら、子どもだった頃の事を忘れるのかもしれない。忘れないようにずっと覚えておこう」と強く思った思い出もある。

フィクションはフィクションなので「こんな人おらんやろ」ではある。けれども「こんな男性いない」より圧倒的に「こんな女性いない」「こんな子どもいない」の方が多い不均衡さがある。この謎を解き明かすべくアマゾンの奥地に行くわけにもいかないので、日々色々考えながら、作品に反映させていければと思う。畳む

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