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Icebreaker
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日々のちょっとした絵の格納庫です。余計な話もたまにします。

No.27, No.26, No.24, No.20, No.4件]

創作しているどころの騒ぎではないこの感じ。
自民党の新総裁が決まってから、公明党が見放すレベルなのはかなりまずいと思ったものの、それでもさすがに馬鹿な事はしないだろうと思いたかったものだけど、とんでもない放言のせいで国を危機に陥らせていて駄目過ぎる。

今更頑張って軍拡したところで勝ち目があると思える方がおかしい。これ以上軍事費に費やしたら生活が終わるし、費やしてもなお勝てない。それほど差をつけられている。
ついでに言えば産業など生活の殆どを中国に依存しているので、中国と国交断絶したら早晩国自体立ち行かなくなるのにね。お花畑はどっちだよと言いたくもなる。
大日本帝国の亡霊は、いつまで我々に竹槍を持たせれば気が済むのだろう。

追記:ちょくちょくハンドルネームを変えるとある学者さんがこういうポストをしているのを見かけた。
「大国様にご不快な思いをさせた小国は殴られて当然」という田舎のヤンキー中学みたいな世界観を平和主義とは呼ばないラジよな。
他にもツッコミを入れている引用があったが、「田舎のヤンキー中学」という卑近な事象に落とし込んでしまうあたり、言い方は悪いが所詮オタク的な価値観を捨てきれない人なんだなと思ってしまった。大体国と国とのやり取りにおいて、ミクロな世界のやり取りを当てはめる事は難しい。

前提がまずストローマン論法で「大国様にご不快な思いをさせた小国は殴られて当然」という発言がどこにあるのかという話である。大前提として何について語っているのかをぼかしているのも中々卑怯である。何の話題についてかは知らないが、他者の発言を勝手に拡大解釈しているだけなのではなかろうか。本当にそんな事を言っている例があるなら出して頂きたい。

こういう冷笑はネットでウケが良い。複雑な事象を単純化してわかった気になれる上に、大した努力もせず他者を小馬鹿にする事で自己肯定感が上がったように錯覚出来るからだ。
一体なぜ人はネット右翼的なものに騙され、なぜ冷笑に走るのか、長らく謎だった。その答えがこれなのか。

話が少し飛んでしまうが、同様の理由で私はヘタリアという作品が苦手だ。歴史的な出来事も国の風土も、そんなに単純化出来るものではない。入門としてはいいかもしれないが、あくまでフィクションである事を自覚し、いつかその世界観からは抜け出さなければいけない。三國無双から三国志に入っても全く構わないが、三国時代はああいう世界ではない。と言えば分かり易いだろうか。

しょうもないストローマン論法オタク世界観風味の冷笑詭弁を、あたかも「わかりやすいご高説」のように受け取ってしまう人がかなり居るという嫌なサンプルとなった。
文系だから言う。文系の悪い所=曲解と鵜呑み板書という誤った学を煮詰めたような寓話である。
本来の我々文系がすべき学問というのはそんな上っ面の話ではない。ではどうすればいいのか?事実だけを読み、詭弁を弄さず真正面から誠実に言えばいい。それだけだ。

呟き

[英国王、アンドリューから王子の称号剥奪]
よかった、けど長かったなあ、とも思った。
ほぼ黒という状況だし、今更こうしてもなくなった方の命は戻ってこない。でもひとまず、ではあった。
あと
[オランダ総選挙で中道リベラル政党が第一党に]
オランダの政治に明るくないので、中道リベラルとは言えどどういう政党なのかまだわかっていない。けど、極右政党を後退させ、実質ポピュリズムに勝ったというのは良いニュース。

ポピュリズムに陥り、所謂ネット右翼(右翼ではない)みたいな勢力がのさばっているのは日本のみならず、世界的な現象だと思う。主に所謂先進国において。
リベラルに対するバックラッシュというか、極端なリベラル(リベラルではない)の主張が行き過ぎた結果でもあったろうとも思う。
日本だけ見た感想でしかないけど、国内の極端な虹色リベラル(リベラルなのかなあ)層は、見ている限り殆どが押しつけがましい。この点においてネット右翼(右翼ではない)と大差ないと思っている。強いて言えば、ネット右翼ほどの攻撃性が無いというくらいだけど、これもどっこいどっこいか。結局右派女性と見るや馬鹿にした煽り方をする。どの勢力でもどんな状況でも女性は軽視される。そして「なぜそういう主張をするのか」という論拠も大して示さずに「理解しない方が悪い、これが正しい、これが先進的だ」という姿勢を崩そうとしない。

「理解しない方が悪い」というのは本当に駄目だと思う。
ネット右翼も、Wokeなリベラルも、オタクも、生成AI信奉者も。

なのでもう最近はトレンドヘアch.(美容室XENA)さんや、本物の外科医(北原大翔)さんの情報だけYoutubeでぼけーっと見ていた。そんな中だったので、この二つのニュースは少しだけホッとした。
欧米の流れはいずれ遅れて日本にも波及する。広まり具合の大小はわからないが。これを機に、舶来ものを鵜呑み状態で有難がるのをやめて、自分達の頭で吟味して思想を深めるとかまでやってほしいなと思う。

呟き

「教養」とはなにか。と聞かれたら「すぐには役立たない、学問の本質」だと答える。

Xを見ていたら「教養とは、社会の上層部と接続するためのもの」という風な解釈がされていた。それも教養の「効果」かもしれないが、教養の本質ではない。そして「知識」かもしれないが、それとも少し違う。

教養はまず知識を仕入れる事、そして自分の頭で咀嚼し、自分のものにする事。
知識を自分の思考として獲得できなければ、それは単に「知っているだけ」の状態である。子どもは知識を沢山吸収する。けれどその知識から発展する教えを実践し辛いのは、まだ精神性の基盤となる思考が未成熟だからだ。だから子どもは、世の中の道理を一通り知っていても、実行できない。成長していく過程で現実の問題として触れ合ったり、人と議論したり、自分の中で知識を検証したりしていく中で、漸く己の学としての教養になっていく。

教養は一度身についたら終わりなのではなく、終生学び続けて磨く事が出来る道具でもある。そして磨かれた道具としての教養は様々な局面で役に立つ時が来る。それは自らの行いを正すことであったり、人の本質を見抜くことであったりする。仮に富や成果に繋がらなかろうとも、必ず己の人生を豊かにする。
恩師の座右の銘、「無用の用」の言わんとするところもそうではなかろうか。

「社会の上層部」つまり上流階級とやらと接続するため、そして成功するためだと考えていると、足元をすくわれる。真に教養を身に着けていると、すり寄られているかどうかくらい見分けもつくからだ。「接続のため」という魂胆が見え透いてしまうと、相手から信用されない。信用されなければ深い付き合いにもなれない。
そのため、この考えのままであると、真に教養を身に着けている人間からは信用されないし、上辺の「教養」(=学歴や、ただの知識などのブランド)を持っているだけの、同レベルの人間とだけ付き合う事になる。そしてそういう人間も上層部には一定数居る、というだけだ。

「真理が我らを自由にする」という言葉もある。教養とは学問の本質であり、学問とは私達を自由にするものでもある。

呟き

美術系の専門教育を受けていないのもあって、私自身はトレースというもの自体忌避している。
というのも、小学生の頃私も見栄を張って絵を上手く見せようとして漫画の絵をトレースした事があったからだ。すると早速皆に突っ込まれて恥ずかしい思いをした上、やっていてちっとも楽しくなかったので、そこで止めた。
何より、私が小さい頃から気にしている自分の絵の嫌いな部分は「動きを感じられない硬さ」である。トレースしてしまうと、硬さしか残らない。

一方、3Dのポージング人形をなぞるという手法がある。これに関して言えば権利問題はクリアされているので、フリー素材なり自前のモデルなりをなぞるのは問題ない。ただし、実際やっている人が現場にいた時、「こりゃだめだ」と思った。

基礎が無いと、人体のウェイトというものがわかっていない絵になりがちのだ。
きちんと基礎があり、殆どモデルを無視して、たたき台的に描く人はそうでもない。しかし、モデルに頼り切って描く人は、3DCG独特の違和感を二次元に修正して落とし込む事ができず、実在感がまるでない絵になってしまう。簡単に言えば、立体感と生命感が無くなる。

そして今回江口寿史氏の絵を見ていて思ったのが、手をあまり描けていない事だった。
こんな事を言うのは気が引けるが、手抜き的にトレースする人と、生成AIは、手をあまり上手に描けないという変な共通点があると感じた。

模写をする際、出来れば実物を見ながらがいいと言ったのはこれだ。
デフォルメ率がどうなろうと、基礎さえあれば現実味のある、重みを感じられる絵を描く事が出来る。しかし、模写の段階でこの基礎の立体感把握が出来ていないと、何の応用も効かなくなる。

それにしても、無断で他人を素材扱いするというのは一番駄目だと思った。

氏を擁護している人は「画力はある」「個性はある」と言う。
一定の画力は確かにあるだろう。けれど手など細部を描けていない点についてどう弁明するのだろう。
個性はあるに決まっている。どう足掻いても人はそこから逃れたくても逃れられない宿命にある。そしてそれは技巧の高さとイコールではない。生まれたばかりの時から既に与えられたもの、それが個性だ。消えるわけがない。

商業イラストレーターとしてあってはならない事だ。法的な責任もかかってくる。
何より、信じてくれたクライアントやファンに対する重大な裏切り行為だ。
この点を踏まえるだけでも、氏の擁護は無理ではないか。そういう意味で、私は感情的に氏を擁護している人とは仲良くなれそうにない。当然ながら、氏の絵も、絵に対する姿勢も嫌いだ。

ファンは残念な事だろう。中には勿論、「あの人の絵が好きだった自分を否定されている」ように感じて、自分がみじめに思えて擁護に走るという事もあるだろう。けれどそれでは自分の心も救われないし、氏のためにもならない。同様に後ろめたいことをしている同業者なのだとしたら、もうそれは知った事じゃない。

Blueskyでも語ったとおり、「電車内スケッチ」「街で見かけたこんな人」として、勝手に見ず知らずの他人をスケッチして、しかもネットに投稿する事自体が嫌いだ。なぜなら、描かれた人を何一つ尊重していないからだ。盗撮にも近いとも思う。
だから私は知っている人しか模写していないし、投稿する際は出典を明記する。デッサン練習をしていた時も、大半は自画像を描いていたのもそれでだ。自分の姿なら、自分が許可すればいいからだ。投稿しているものに静物画が多いのもそういう理由である。

時代が進んだから云々ではない。「描かせて貰う前に承諾を得る」。人として最低限の倫理観の話ではないのだろうか。

呟き